はじめまして、あっきゃんと申します。
この度はご覧いただき、ありがとうございます。
人生は予測不可能です。
もし突然家族が倒れて介護が必要になった時、 あなたは仕事を辞めて
すぐ他の方法で稼ぐことができますか?
多くの方が直面するであろうこの問いに、私はの答えは「No」です。
私自身、母の介護が突然必要になり、主な収入源を失った経験があります。
詳しくはこの後書くため、ここでは省略しますが、
収入の大部分を担っているにも関わらず、貯金ができない病を患っており、
収入が途絶えた今、大分崖っぷちにいます。
貯金なし、借金あり、そして月収がたったの5万円
そんな私が生活を安定させ、安定して月30万円を稼ぐ
その目標を叶えるために、
どんなことを学び、行動していくかの過程を
このブログでお伝えしたいと思います。
特に、
介護やお金の不安に押しつぶされそうだったり、
本当に大切なことが迷子になってしまっている方へ、
困難な状況や働けなくなっても終わりじゃないと思ってもらえ、
自分自身も含めた大切な人との時間を笑顔で過ごせる
そんな手助けができればと願っています。
少しでも心あたりがある、何とかしたい気持ちをお持ちの方はぜひお付き合いください。
基本情報
名前: あっきゃん
年齢: 37歳(8月生まれ)
出身地: フィリピン(生まれてすぐ日本に移住、英語は不得意)
家族構成: 母と18年間生きている愛鳥との3人家族
趣味:
漫画鑑賞
アニメ鑑賞
ハンドメイド(主にアクセサリー)
性格:
・自己啓発に興味あり: 新しいことにチャレンジすることが好き。
・飽き性: 興味が移り変わりやすく、新しいことにすぐ心が動く。
・面倒くさがり: 何事も長続きしにくいが、自覚している。できるだけ楽をしたい。
・収集癖: アニメや漫画のキャラクターグッズを集めがち。
熱中する期間は短いが、愛情は深い。
・経歴: 看護師として15年間勤務。その後、様々な職種に転職
(アルバイト含む転職回数は数え切れず)
生い立ち
私のことをもっと知ってもらうことと、私自身が振り返るためにこれまで過ごしてきて
大きく記憶に残っていることをまとめました。
幼少期〜中学時代 :やりたいことに全力投球
私は一人っ子として、自由に育ちました。
欲しいものを手に入れ、やりたいことに挑戦することで、
好奇心旺盛とチャレンジ精神が育まれたと思います。
4歳で日本に移り住み、言葉の壁に初めはストレスで蕁麻疹を起こしていたと
母から聞かされましたが、記憶になく、アニメを通じて楽しみながら日本語を学び、
友人たちと遊ぶ中で自然とその壁を乗り越えたんだと思います。
その経験や母が外国の人との言うこともあり、私はオーバーなリアクションや
身振り手振り、表情を動かしたコミュニケーションを得意とするようになりました。
外での活動から始まり、中学生になるとアニメ、マンガ、ゲームといった趣味が
さらに広がり、さらに多趣味になったと自覚しています。
中学2年生の時、クラスに馴染めない時期もありましたが、アニメなどを通じて
出会った先輩や友人の支えがあり、立ち直ることができました。
さらにインターネットでの交流もあり、学校やクラスだけが全てではないことを
自然と認識していまいた。
この時期には精神面の揺れが大きいことを懸念した母がとても注意していたようで、
気づかずに助けられていたと思います。
学業ではこの頃までは優秀の部類でしたが、その中で英語は本場の発音の母とぶつかり、
中学1年生で挫折し苦手意識を持ちました。
振り返れば、大変もったいないと感じています。
部活動では先輩から厳しい仕打ちを受けることもありましたが、
「続けられないと辞め癖が付く」としばらく耐えていました。
そんなとき、恩師である担任の先生に話を聞いてもらい転部を決意し、
その後は吹奏楽部で充実した日々を過ごしました。
「上手く行かない時は、今いる場所が悪いのかもしれない」
その言葉は、その後も辛い時の私の支えとなっています。
高校時代 :父の死
中学3年生の受験期に父が肺気腫を患い、在宅で酸素療法を始めました。
父は今後を考えて、辛い体をひきずりながら、生活のための手続きを行ってくれて、
私は持ち運び可能な酸素ボンベを抱えながら父の背中をみていました。
高校2年の冬、父の病状は悪化し、頻繁に入院が必要となりました。
私たち家族は、日本語に不慣れな母と学生だった私でしたが、
叔母の力添えもあり何とか乗り切ることができたと思います。
父の治療はかかりつけの病院での対応が難しくなり、都内の大きな病院へ転院しましたが、
学校があったため、私が面会できるのは週に1回程度で、
ある日、父に「隣のベッドの方の子どもはここで宿題をしている」と言われたとき、
もっとそばにいてほしいという願いに気付かず、訪問時間30分で帰宅してしまいました。
また、「もっと優しくしてほしい」と伝えてくれた父の言葉や
会話が難しくなり裏紙に「もうつらい」と震える字でメモを残してくれたにも関わらず、
当時は反抗心からか、素直に応えることができませんでした。
実は、私たち家族に父の余命や病状の説明や深刻さが伝わっておらず、
父の死を身近に感じた時には、意識がなくなってからでした。
状態が悪いという連絡を受けなんの準備もしないまま3日間病院に泊まり込み、
親族とも相談して一度家に帰ることにしたその途中で、すぐに戻るよう連絡を受け
病院に戻りました。
高校3年生の春、卒業式を前にして父は他界しました。
その後、母はパートで家計を支えましたが、海外出身者で日本語も流暢でないため
給料は低いものでした。しかし、私に心配をかけさせたくなく、金銭面の苦労を
隠していて、私はその苦労を大人になって言われるまで気づいていませんでした。
高校時代は部活動に挑戦しましたが、結局うまくいかず、帰宅部として過ごし、
アルバイトや奨学金を借りて学費を確保し、卒業することができました。
専門学校時代:看護師への道
父の病もありましたが、母の姉が看護師として生計を立てていた影響もあり、
幼い頃から看護師になることは私の人生の中で自然な選択でした。
専門学校での学びは、ただ技術や知識を得る場所以上のもので、
多くの患者さんとその家族に出会い、彼らの苦悩に深く寄り添うことで、
父との経験から抱えていた後悔にも向き合うことができました。
特に、患者さんの家族への対応には、自分自身が経験した家族としての辛さと共感から、
一層優しく接することを心掛けました。
看護師としての挑戦:体調不良と転職
国家試験を合格し、看護師としての生活が始まりました。
最初は付属の病院でICU勤務を希望しましたが、結果、ポンコツでした。
人の命が大きく関わる場所での重圧と迅速な判断が求められる環境で自信を無くし、
1年を待たずに病棟への転属。同期の支えがあったものの、厳しい先輩の指導や周りの同期のペースについていけない業務に苦しみました。
勤務一時間前には担当の方の情報を集め、毎日4時間以上の残業。
夜勤では翌日の準備のために一睡もせず、寮住まいで職場と近かったですが、
健康的な暮らしてではなかったと思います。母曰くよく泣いて電話をかけていたそうです。
そんなある日、激しい吐き気とめまいで初めて仕事を休むことになりました。
内科を受診し、次の日には仕事をしていましたが、症状が再発し、看護師長のすすめで
耳鼻科に受診したところ、「メニエール病」と診断されました。
治療を行いましたが症状が変わらず続き、別の病院で受診し「突発性難聴」の診断を
受けました。この病気はすぐに治療をすれば聴力の回復が見込めましたが、
残念ながらそのリミットはとっくに過ぎていました。
片耳が聞こえないながら、3年働けば奨学金免除があったため、
周りの人の協力をを得ながら耐え、病院を退職しました。
その後はクリニックや美容クリニック、訪問看護、施設など、様々な場所で経験を積むことになりますが、中学時代からの「辞め癖」が心に残り、続けられないことにふがいなさを感じつつも、「今いる環境が良くないのかもしれない」という恩師の言葉を胸に、仕事に挑戦しました。
フリーランスへの転換:母の介護
看護師としての仕事に疑問を感じ始めていた私は、10年目頃にオンラインでの簡単な入力の仕事を始めました。長い通勤時間や早起きに嫌気がさしていた私は、
在宅で働き、もっと自由に生活したいという願いが強くなり、物販のスクールに入ったり、アルバイトを掛け持ちしながらお金を稼ぎ、忙しくも充実した日々を送りました。
それこそ、家には寝るために帰るくらいで朝から晩まで仕事をして、母との時間は月1回と母や家のことは二の次でした。
そんなある日、夜勤の休憩中に母の友人からの着信履歴があり、嫌な予感がしつつ確認すると、倒れて救急車で運ばれてているとの連絡でした。救急隊から言われたのは
「a型の大動脈解離」
病院に着くまでに半数は亡くなることが多いと言われている状態。
ICUでの経験がある私にとっても深刻な状況でした。
私は最後に母と何の話をしたか、最後に会ったのはいつか、それすらもわからなかったことに気が付きました。
不安と恐怖で頭がいっぱいになりながら、会えると信じて病院に向かい、病院で生きている母に会えたときは嬉しさと感謝しかありませんでした。
でも最後になるかもしれないと頭にあり、日ごろから伝えたいと思っている
「大好き」「ありがとう」を言葉にしようと思いましたが、知り合いも近くにいて、
結局聞こえないくらいの小声でしか言えませんでした。
手術が成功し、母が一命をとりとめてくれて、心から感謝するとともに、
出来なかった親孝行をしようと心に決めました。
一度家に帰って冷蔵庫を開けると、そこには私の好物がたくさんありました。
それを見た瞬間、感謝と愛情で涙が止まりませんでした。
周りの人に支えられ、一ヶ月半後退院が決まりましたが、ここからも課題が山積みでした。
私は仕事ばかりだったこともあり、家事がからっきし。
もともと体調が悪い時には食が細くなる母で、減塩食で味がないとさらに食べてもらえず、家事に追われながらも、看護師だからこそいろんなよくないことを考え、
母の状態、一挙一動にびくびくして神経質になっていまいた。
看護師だとか介護経験があるとか正直関係なく、何をしていいかわかりませんでした。
気づいたら3か月があっという間に過ぎていきましたが、正直その頃なにをしていたか、
はっきり覚えていません。
ただただ毎日母が生きていることに感謝していました。
母一人での生活が難しいこともあり、介護と在宅でのお仕事が本格的に始まりました。
今後の目標:目標を叶えるための挑戦
もともと貯金ができずあるだけ使ってしまう私でしたが、
ちょうど一心不乱に仕事をしていたこともあり、介護と家事に奮闘した3ヵ月分は
なんとか働かなくても生きていけました。
しかし貯金がなく、仕事もしなければいつかは底をつきます。
10年間貯めていた貯蓄型の保険を崩し生活費にあてました。
クラウドワークスでオンラインでできる様々な案件に挑戦しましたが、
スキルも実績もない中できる仕事では、時給換算で500円以下どころか100円に満たないものもありました。
在宅でできるお仕事でスキルとして今後活かせるものを探している時に興味を持ったものが
動画編集とInstagramでした。
スキルを身に着けるためにスクールに入会し、分割払いにして取り組みましたが、
始めて3ヵ月の結果は、生活費には程遠い状況。
わからないを聞ける場所がなく、インターネットで検索しなんとか仕上げ、
自分のスキルの足りなさを痛感し、成果を出せないままで、
報酬を受け取ることに罪悪感を感じました。
リモラボとの出会い
不安と焦りが押し寄せる中、X(旧Twitter)でいつも目に留まる投稿がありした。
かわいいイラストでわかりやすくフリーランスとして成功するための具体的な方法や
ノウハウが伝えられているアカウントで、保存して何度も見返して憧れを抱いていました。
スクールへの入会がしたい気持ちがありましたが、その前に受けていた
スクールの支払いが残っていて、収入がない中入れない
そう思って断念していました。
そして、結果がでないまま半年が過ぎました。
そんなある日、すっかりファンになったアカウントの告知で
「オンライン秘書」という内容がありました。
見てみると、自分がすでにやっている仕事と当てはまっていることに気づき、
ここでがんばれば、スキルが身について成果に繋がって力になれるかもしれない。
他の仕事も掛け持ちして生活費を増やせるかもしれない。
なによりしっかり学びたい!
そんな思いにドキドキしました。
すぐ怠けて続けられない私が、自己流でやってたら何も変わらないと、
このチャンスに賭ける決断までに30分はかからなかったと思います。
もともと入りたかった気持ちと環境とやりたいことがすべてそのアカウント、
「リモラボ」にありました。
金銭的にも収入がなければもう2か月ほどしか残っていません。
もうやるしかない状況で、やらざるを得ない環境に身を置きました。
終わりに
冒頭でもお伝えしましたが、人生は予測不可能で、
様々な理由で働きかき方が突然変わったり、
収入がなくなるというのもあります。
私は元々看護師として仕事をしていましたが、
家族の介護をきっかけに働き方が変わりました。
自宅での介護は病院での仕事とは全く異なり、
看護師としての経験が直接役立つわけではありません。
全く違う分野であり不安はもちろんありますが、楽しみとも思っています。
とはいえ、後がない状況の中、これまでの経験を生かして、
在宅で月30万円を稼ぐまでのプロセスを皆さんと共有していきたいと思います。
最後までご覧いただきありがとうございました。
これからの一年、私の成長を一緒に見守っていただければ幸いです。